陸羽東線C58の時代

陸羽東線C58の時代

 

はじめに

陸羽東線は途中奥羽山脈を横断して東北本線小牛田こごた駅から奥羽本線新庄駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の94.070kmの路線である。現在、定期列車はキハ110系気動車による普通旅客列車のみが運行されるローカル輸送主体の路線だが、路線建設の当初の目的は「東北地方をほぼ真ん中で横切って奥羽山脈によって分断されている太平洋と日本海側を結ぶ両洋連絡横断線」[1]というものであった。

東北地方を最も楽に横断できるのはどこであろうか。図0-1を見れば宮城県北部から山形県北部に抜けるのが最も容易いたやすいことが分かる。南の福島県側、北の岩手・秋田県側では、いずれも奥羽山脈の山幅は広く、標高は高く、山容は急峻である。これに対して、江合川の支流である大谷川おおやがわを辿れば標高300mほどでサミットを越し、その先は小国川に沿って下ることができる。奥羽山脈の鞍部を越すこのルートは陸奥国最大の都市仙台と西廻り海運の起点酒田湊を結ぶ道として鉄道建設よりずっと昔から使われてきており、明治政府が全国の道路を整備するために選定した仮定県道17号線に指定されていたことからも、奥羽山脈越えにはもってこいのルートであったことは想像がつく[2]。陸羽東線はこの北羽前街道と呼ばれることになるルートを鉄道という強力な輸送体系に置き換えようという位置づけで建設された。

しかし、この路線がその目的通りの使命を果たし続けたのはせいぜい山形新幹線の新庄延伸までである。山形新幹線の新庄開業に伴って山形県は東京直結になった。それより以前、東北新幹線の盛岡開業は宮城県を東京直結にしている。この時点で陸羽東線は宮城県北部と山形県北部のローカル輸送という使命しか持ち合わせなくなってしまった。そのローカル輸送にしてもモータリゼーションの波が多くの旅客を奪っていった。貨物輸送に至ってはそれ以前に、ノンレール化が進み、この地域の物流は鉄道輸送からトラック輸送になっている。21世紀に入り陸羽東線の当初の目的はすっかり薄らいでいった。

それでは、陸羽東線が陸羽東線らしく活躍したのはいつまでだったのか。今振り返ると、それはまさに蒸気機関車の終焉とほぼ一致することに気づく。皮肉にも陸羽東線の近代化・無煙化は、陸羽東線の凋落の一歩だったのである。陸羽東線がそれらしく振る舞った最後の時代を担った蒸気機関車は鐵道省(のち日本国有鉄道)のC58形蒸気機関車だった。本書はC58形蒸気機関車に焦点を当て、陸羽東線を通して地域と時代を考証するものである。

 

第一章 陸羽東線の建設

1.背景

一般営業する鉄道が日本で初めて開業したのは1872(明治5)年である。大量の人と物を高速で運ぶことができるこの交通機関は、近代国家として諸外国と肩を並べようとする明治政府の方針を具現化するものであり、鉄道建設は異常と言えるほどの速さで全国に広がった。諸外国を見れば、鉄道発祥の地イギリスでは1825年のダーリントン〜ストックトン間の鉄道営業開始からすでに50年を経過しており、主要都市は鉄道網で結ばれ最高速度100km/hの列車さえ運転されていたし、アメリカでは1869年には大陸横断鉄道が開通していた。諸外国のそのような情勢を見れば明治政府が鉄道建設をどれだけ急いだかは想像に難くない。1872年の日本最初の鉄道営業の開始から20年にも満たない1891(明治24)年、日本鉄道は上野〜青森間全通にこぎつけた。それに遅れること14年、1905(明治38)年には奥羽本線が青森まで全通する。これで東北地方を縦断する輸送の二大骨格ができあがった。幹ができれば枝を伸ばすのは当然である。東北横断線の建設は既に視野に入っていた。

 

  1. 両洋連絡の要路

東北本線の前身である日本鉄道が全通した翌年の1892(明治25)年6月21日制定された法律第4号「鉄道敷設法」には、縦に延びた幹からどう横に枝を伸ばすかがが書かれている。同法第二条 奥羽線の項に「宮城縣下石ノ巻ヨリ小牛田ヲ経テ山形縣下舟形町ニ至ル鐵道」の建設が記載された。この建設予定線は現在の石巻線と陸羽東線である。奥羽線の枝線として新庄から酒田に至る酒田線の建設も同法、同項で建設予定線にされており、両者をまとめて考えると、石巻から酒田までの横断線を建設する、という意味になる。陸羽東線は太平洋側と日本海側を結ぶ横断線の一部として計画されたのである(図1-2-1)。陸羽東線建設概要には「両洋連絡の要路」という言葉が最初に出てくることからもそれは明白である。陸羽東線の建設過程を以下に述べるが、これは遠い昔日の記録に留まらず、C58形蒸気機関車がどのような路線で使用されたかを知る上での基礎知識になる。さらに現在の陸羽東線と重ね合わせて読むことでこの路線の本質が見えてくる。周辺環境の大きな変化の中にあっても陸羽東線の線形については、建設から1世紀経た現在でもさして変わってはいない。鉄道の妙味は100年の歴史でさえもわかりやすく我々の前に開示してくれるところにある。

 

  1. 小牛田停車場の移転開業

1890(明治23)年4月16日、日本鉄道の一ノ関延伸開業によって誕生した小牛田停車場(駅)は、現在の小牛田駅より1.1km北の遠田郡小牛田村にあった(図1-3-1)。江合川に近く増水の度に駅は浸水し1910(明治43)年8月には壊滅的な被害を受けた。石巻線、陸羽東線が開通すれば小牛田駅はこれらの線の起点になる。それを勘案した場合、このような災害を受けやすい場所への基地設置は不適当だという判断と、石巻線の前身である仙北軽便鉄道の建設が具体化してきたこと、将来陸羽東線となる陸羽線が同年3月に鉄道敷設法第7条第1項の第一期予定線に追記され、5月には新庄建設事務所が設置され実測が開始されていたことなどがあって、駅再建は鳴瀬川近くまで南方向に移転しておこなうことになった(図1-3-2)。面白いのは鳴瀬川も江合川同様、奥羽山脈に源を発する一級河川である。どうして江合川を避け鳴瀬川寄りに移動したのか。それは、江合川の方が鳴瀬川に比べ、氾濫を度々起こし流域に被害を与えてきたという歴史に基づいての判断であった。大崎平野を流れる河川は普段は穏やかな表情をしているが、2015(平成27)年秋の台風18号で渋井川、2019(令和元)年秋の台風19号によって吉田川と、いずれも鳴瀬川水系で越水・堤防決壊が起き流域に甚大な被害を及ぼした記憶は新しい。河川整備が進んでいなかった明治時代には、このような洪水が頻繁に大崎平野を襲っていた。大崎平野の豊かな土壌は、江合川、鳴瀬川の度重なる氾濫でもたらされたものである。ここは氾濫原であるということを当時の人々は現代人よりも強く感じていたに違いない。しかも流域の広い江合川の方が氾濫の規模は大きく、小牛田駅から1kmほど東には名鰭沼が1970年代まであり、干拓事業が進められていたくらいである。江合川の治水は時代を超えた課題であったから、現在まで様々な工事がなされてきた。それが最近の江合川による河川災害の減少要因の1つであろう。その江合川に沿って陸羽東線は建設されていく。陸羽東線を語るとき、江合川抜きにはできないし、江合川の治水との深い関係にも触れなければならない。ただ、鉄道の方は国土交通省河川事務所で用いられる江合川の名称は使わず、荒雄川という、現在でも江合川の上流域で用いられている源流起源の名称を使うことになる[3]

 

 

[1]新庄建設事務所 陸羽東線建設概要 河北新報1917.10.28-31

[2]現在、出羽仙台街道中山越えとして史跡指定されている。

[3]旧建設省所管官庁が江合川、旧運輸省所管官庁および地元町村が上流域で荒雄川を使用。したがって中流域では運輸省所管の国鉄も江合川を使用しており東北本線 小牛田〜田尻間でこの川を渡る橋梁は江合川橋梁と名付けられている。